2649年01月01日

Chapter:01『クリスの手紙』



 雨が降っているようだ。

 一粒、二粒と零れ落ちていくささやかな水滴。

 そのリズムに合わせて、ピアノを弾きました。

 涙雨、と言う言葉があるらしい。上手く言ったものだと思います。

 譜面はありません。

 ただただ、揺れ落ちる水玉のリズム、涙のリズムに合わせて付き合いの長いピアノ、その鍵盤を撫で続けました。

 でもね、泣くのはこれっきり。

 私は、もう泣かない。

 ……そうね。私にとって、これが生まれて初めての『作曲』と呼べる行為だったのかもしれません。






   ◆ ◆ ◆


「――ファ――ストファ――クリストファ!」
 いけない、授業中に眠ってしまっていたのか……。
「はい!!」
 とにかく速やかな直立を実行して、質問を待った。
「良い返事は返事だったなぁクリス…………で、答えは???」
 清潔感のあるワンピースに身を包んだ女性担任教師が、それでも口の端を邪悪に持ち上げた。ええい糞、そりゃ授業中に眠っていた僕がいけないけれど。そもそも、何の授業だったっけとか思い出せない辺りが大概、終わっている。
「答えは――『ありおりはべり――いまそがり』です!!」
 教室中がどっと湧いた。手元のディスプレイパネルが『歴史近代』で点滅していることに今更ながら気付く。いやーやっちまったなぁ。
「ああ――なんか許したくなる類のボケだがまあ、廊下に立っていろ、十五歳にして大物となったミスター・クリス???」
 担任教師はそれでも必死に笑いを堪えているのだろう。気持ちは分からないでもない。ので。
「ハイ。スンマセンシタ」
 深々と一礼し、未だ爆笑冷めやらぬ教室から僕は、廊下に出て行った。

   ・
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 放課後、担任教師からテンプレート的な注意と、教育指導を受けることになった。
「いやぶっちゃけ副級長やっていて成績も安定、素行も良好な君に何か言うことあるかっつったらないんだけどさ」
「すみません、別に夜更かしを決め込んだ訳でもなくて、ただいつの間にか眠ってしまって……」
 それは全くの事実であり、恥じ入るところでも無かったのでクリストファは静かに頭を下げた。なんだかここ数日、眠りが浅い自覚は確実にあったのだけれど。
「……ああ、まあなぁ、君のデリケートな『事情』も知ってはいるつもりだし、でもあの場合、私は君に叱責を加えねばならなかった、その理由は分かるよね??」
 言及し難い、そして通常の公務員教師であれば面倒臭がって触れもしないだろう部分に、しっかりと踏み込んでくるこの担任教師をクリストファは嫌いではない。
「正しい選択だったと思います。贔屓(ひいき)はするのもされるのも嫌いですし、実際に自分が擁護される要素は全く、ありませんでした。本当に申し訳ありません」
 まぁ、わかったんならそれで、と担任はクリストファ主観では濃すぎるコーヒーを手に取った。話は終わり、そんな空気なのだろうか。しかしなんだか色々とこの人には面倒掛けて、申し訳ないことが多いんだよな。
「……あの、誤解されると困るんですが僕は先生のこと本当に好きですし、尊敬しています」
 ブー、と担任が含んだばかりのコーヒーを見苦し汚く噴くのは流石に想定外だった。
「ゴホ、ゲヘ――突然何を言うんだい、クリストファ!」
 鼻から茶色い水が出ているようだけれど、クリストファ・アレンは紳士なので脳内記憶を抹消することにした。ただ、慌てて袖口で拭って頬に広がった口紅はこれはちょっと如何(いかが)なものだろうか婚姻適齢期、妙齢の独身女性的に考えて。
「うへっ――きったねぇ――もとい、本当に嘘偽り無い本心であります!」
「つうか今、汚いって言ったか、言ったのはこの口か!!」
 両の頬を思い切りつねられる中、クリストファは余計な口を聞いたことを心から後悔した。

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「大変ねー、美形の教え子持つと」
 ビシィ、とクリストファの担任教師は同僚である保健女医――表現に正確を期すれば養護教諭――の額にチョップを容赦なく放った。
「そんなんじゃねーよ、ただ、あの子は色々と面倒臭いんだ、状況が……同情しちゃいけないとは思っているけれど、でもさぁ」
 その一パーセントでも良いから同僚にも愛を配って、保健医が額を抑えながら立ち上がる。
「勉強も出来て、コミュニケーションも問題ない、大丈夫なんじゃないかなぁ痛たたた」
 実際、この保健医アニタ・フレイヤは担任教師である自分の次に労苦を背負ってはいる一人だった、そう思い返した担任教師はそれ以上の追撃を控えてやることとした。淹(い)れ直したコーヒーを一口。
「……でも子供っぽいな、と思っていれば妙に大人っぽくなる時もあるのよね、彼――んー」
「うっわ、『彼』とか超引くわ――お巡りさんこっちで――」

 女性担任教師、ノリコ・マキシスの殺人技が炸裂した。



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「ん?」
 何処かで誰かが『シャイニング・ウィザード』でも食らったのだろうか、そんな断末魔が聞こえた気がしたが。ともあれ、クリストファは『アルタミラ市立マッケイ高等学校』敷地、その外れにポツンと存在している弓道場へと訪れた。時間的に、丁度良い筈だ――居残りの反省文原稿用紙二枚分と担任教師による軽めの説教を受けて丁度、というのも如何なものかとは思わないでもないけれど。
「よー、旦那!! 今日もお迎えご苦労!」
 この挨拶も毎度も毎度。ポニテ眩しい麗しの女子、しかしその身長はこの齢で175センチを垂(なんな)んとする女巨人。クラスメイトであり、級長であり、そして生徒会副会長でもあり、そして何よりも近所馴染みであるジャニス・アスプルンドだった。癖のある赤毛を無造作にまとめたポニーテール、伸び切った手足に弓道袴が良く映えている。雑巾片手、と言うことは最後の掃除の最中のようで、本当に時間的には丁度良かった。
「……毎回毎回飽きないかな、いい加減に」
 ワッハッハ、と腹から笑うジャニス。弓道と言う日本武道は腹式が鍛えられるとは聞くが、この笑い方はそれこそ胴に入っていて嫌いではない。
「マキは?」
「現在、皆で鋭意清掃中でおじゃる。安土(あづち)の方じゃないかな当番的に。呼ぶかい?」
 安土という専門用語が、弓道という古武道の『的』を固定させる為の盛り土であり、また激しい速度で打ち込まれる矢を受け止める緩衝構造物でもあることは部外者のクリストファも知っている。と言うか、基本的に土砂を固めて作られる『それ』が崩壊した時の手伝い、労作に駆り出された苦すぎる実体験があった。水を吸った重い土砂をひたすら、盛り上げ固めていくという終わりの見えない作業であり、二度とやりたくない仕事の一つだった……。
「いや、呼ばなくて良いよ。いつもの場所で待っているからさ」
「『あたし』はお邪魔じゃないのかい?」
 ったく、なんでこの小娘もとい大娘は毎回毎回それこそ同じ事を言うんだか。
「帰り道のお喋りは大人数の方が良いだろ――学校側からも暗に『集団下校』を期待されているし」
 クリストファが、毎回そう答える、これもルーチンの一つ。
「『集団』っつってもたった三人なのナー!!」
 ジャニスがケタケタと笑った。



 エテルナ共和自由国、その政府が音頭を取った『都市圏外居住生活実験』、そのモデルケースの一つとして首都アルタミラから50キロ離れた森林地帯、その拓かれた一角に彼等の『家』、特別居住区『グリーンヒル』は存在していた。およそ二千世帯に分譲され、それまでの都市部一極集中型多層構造建築とは一線を引いた牧歌的、いわゆる『庭付き一戸建て家屋』のみで構成された住宅街であり、それはそれは厳しかった抽選を潜り抜けることに成功した幸運の持ち主とその家族のみが居住を許されている、正に『特別区』であった。そんなグリーンヒルから、都心部アルタミラの学習施設に通う生徒達の数は決して少なくはなかったのだが、何しろ新興の住宅街と言うこともあり、高等学校に通う人間となるとそれは両の指で数える程しか存在がなく、その結果としてのささやかな特権が『彼等』には与えられていた。
「あー、くっそ、羨ましいなぁ俺も乗りたいなあ」
 クリストファが自分のエア・バイクに認証を入力した、そんなタイミングで背後から愚痴ってきたのは級友である橋本サトルだった。やはり部活上がりなのか、柔道着の肩には汗に湿ったタオルが掛けられていた。
「通学以外だったら許可されているじゃん」
 メットを取り出しながら、クリストファは当たり前のように答えた。実際、このアルタミラ市ではエア・バイクのライセンスは15歳から取得が可能となっている。航宙機に近いその操縦方法、並びに空間認識能力が鍛えられるという側面もあり、寧ろその免許取得は国から推奨されている程だった。もっとも、学校側から通学での使用許可が降ろされているのは『グリーンヒル』居住者だけ、と言う現実――言い様によっては先の特権――があったのだが。数えるほどの学生に対し、スクールバスを手配するよりも自力で通わせる方が賢明、税金的に。有事の際にはオート・クルージング(自動操縦)で動かせば良いのだし、と。このエテルナは惑星開発の初期から人間の生活行動圏は全てGPS網でカバーされているし、高度な自律コンピュータを積載しているエア・バイクが不調を起こす可能性はまず、存在しない、そんな背景もあった。
「……いや、実は先日、出前中に高度違反でポリにしょっ引かれて免停くらっちゃってさ」
 トホホ、とサトルは頬を些(いささ)か強めに掻(か)くのだった。
「そりゃ身から出た錆ってもんでしょ」
 ご愁傷様、と続けたクリストファにサトルは大きく項垂れた。
「お客さんに、握り立てを早く持っていきたかったんだよー……罰金はともかく、再受講と再試験……その間、家の手伝いできねぇってのがなあ。オヤジにも引っぱたかれたしよー」
「三枚に下ろされなくて良かったネ」
 誰が上手いこと言えと言った、と老舗の寿司屋『寿司飛(すしとび)』の五代目はクリストファの背中を大きく叩いた。アルタミラの旧市街に居住まいを定める『寿司飛』は味が良いことで有名だった。
「――あ、そうだ。そんなハゲオヤジがまたアレンさん夫妻に食いに来て欲しいって言っていたぞ。サービスするってさ」
 またぞろ『試食会』の名を借りた『中年共が大いに酒を呑みまくる会 〜泥酔しているから恥ずかしくないもん!』が開催されるのか――クリストファは溜息を一つ。間違いなく、参加者は隣家近隣の夫妻もカウントされることとなるのだろうが。
「……オーケー、伝えておくさ。また連絡させる」
「頼むよ、地球育ちの『味覚』と『知識』は貴重なんだ」
「……僕を含め、あの人達にそんなデリケートな味覚があるとも思えないけど……」
 実の所、『地球育ち』とか『地球産まれ』と言われるのは愉快なことではなかったけれど、まあ実際に珍しいこともあるのだから仕方ない、と諦観できる程度に大人にはなれているつもりだった。ここ十年、実質的な移民制限が掛けられた結果、太陽系とアポロン星系を往復している船舶のほとんどが輸送船となってしまっているのは事実である。少なくとも、自分の世代で『地球産まれ』なんてこっちで見たことも聞いたことも無かった。そもそもが、寿司と言う和食に関する味覚感覚で期待するとなると、生粋の日本民族とかでないと望み薄だろうと思ってしまうものだが。

 じゃーな、と部室棟に寿司屋の五代目が向かったタイミングで、遠目にも判別の容易なジャニスと、恐らくはマキであろう人影、その組み合わせが視認出来た。




   ◆ ◆ ◆



 自分、クリストファ・アレンは十五歳。血液型はB、身長は166センチ、体重50キロ。太陽系は地球、北米連合自治州の出身。父、アルフレッド・アレンと母、バーバラ・アレンに連れられ、一年前にエテルナへ渡ってきた。

 人工冷凍睡眠、俗に言うコールド・スリープ、その覚醒時になんらかのトラブルが発生し、深刻な記憶障害を患った。薬品、或いは機械類、それともシステム的なものか、個人体質的なものなかも、未だに判然とはしていない。

 やたらと『現実感のある、しかし別世界さながらの映像』を含んだ夢、或いは妄想に当初は悩まされていたが、幸いにも知的障害とは無縁で学業的な部分での妨げとはこれはならず、通常学級への入学を果たすことは出来た。学業成績にも問題は全く無く――寧ろ努力を怠ってすらいたが――常に学年二位をキープ。

 今は、もうカウンセラーも必要ない、けれど、学校を始めとした各種機関からは注意深く見守られている存在、それが自分。

 好きでこうなった訳ではないものの、どういうことか外見から女性と間違われることが多い。肩まで伸ばした髪の毛を無造作に紐でまとめ結っており、これが一つの誤解の原因かとも思うが、どうしたことか、切る気にはなれない。そして良く言われるのは、何歳にも見えるし、何歳にも見えない、らしいこと。それは両親も同じで、下手を打てば年の離れた兄弟に見られることもあった。

 そんな自分はどこか現実感とか実感とかが無いまま、それでも平穏な日々をこの『エテルナ』の大地で過ごしている……のだと思います。





   ◆ ◆ ◆


 手を振ってきているクリストファに絆創膏にまみれた左手を振り返す。和弓を握る左手――弓手(ゆんで)と言う――のマメが今日も潰れてしまって、かなり痛かった。幼少の頃より半ば強制されてきた――今は、必ずしもそうは思わないのだけれど――ピアノの演奏に支障が出るんじゃないか、と父親はうるさかったものだけれど、そちらの手も抜かないと宣誓し、弓道を続けさせて貰っている。まあ晩酌時、ワインで気を良くした父親の即興オペラ、その伴奏をしてやれば大抵、機嫌が良くなる、ある意味では操縦の易い父親ではあったが。
「もうちょっとの辛抱。皮が堅くなってくるから、大丈夫っさ」
 肩を並べ歩いている――身長170オーバーの彼女と160にも満たない自分でこの表現は間違っているかもしれないけど――ジャニスがそんなことを言ってきた。私は、何も口にしていないのに。豪放磊落(ごうほうらいらく)だけではない彼女のそんな優しい側面、細かな機微を、クラスのみんなはどれだけ知っているのだろうか。いや、感じられているからこそ、級長として、生徒会副会長として選ばれているんだろうか。
「二人とも、おっ疲れ。天気予定では大丈夫らしいが、寒くなってきたし早く帰ろう」
 自慢の愛機、純白のバイクに跨りながらクリストファが促してきた。自分達が来るまで、ナビシステムの情報各種、その確認をしてくれていたのだろう。
「さて、帰りますか、愛しのマーリンちゃん」
 よっこらせ、と教員と共用のパーキングゾーンからジャニスが、ドの付く紫色のバイクを引き出した。『マーリン』というのはそんな私物バイクの愛称だ。ちなみに、深い意味はないらしい。やはりこの辺は適当というか、大雑把な部分がある彼女なのかも。私物でもあるバイクに関して、クリストファや私は単純にブランド名でもある『隼(はやぶさ)』と呼んでいたけれど。栄光と実績、何よりも歴史あるヤマキ株式会社の製品、ブランド。
「――つっ」
 自分のバイク、そのハンドルを握り込んで引き出したはいいものの、やはり左手のマメが激しく痛んだ。
「ああそうだクリスぅ、あっちらちょっと弓握りすぎて左手痛いんだ。先導してくんね??」
 既にヘルメットも装着していたクリストファが大きく頷きながら、器用に首を振る。
「……すまん、気付かなかった――オーケー、二人とも『SLAVE』設定を。今、こちらの『MASTER』を設定する」
 クリスが謝らなくたっていいよお、ジャニスは苦笑混じりに私の方を見てきた。
「ありがと、ジャニス」
「いや、あっちのも微妙に痛くてね。せっかくだから名ドライバーに引っ張ってってもらっちゃおうよ」
 ケタケタ笑いながら、左手のグローブをさすって見せるジャニスだったけれど、これはどこまでが本当なのだろうか。いずれにせよ、クリストファの運転技術が最高峰に近いのは確かだったのだけれど。
「ID送るよ。承認よろー」
 ヘルメットのバイザー面、そのタッチパネルの操作を滑らかに行いながらクリストファが言ってくる。私とジャニスは差し当たって無駄口を叩かず、認証コードとこの短時間だけ発効された特殊IDを入力した。いつものことだけれど、クリストファの先回りの速さは尋常ではないのだ、これが。
「追従信号、確認。メットとベルト着けろー」
 ぶりゅん、とクリストファの『隼』が大きくエアーを吐き出した。こちらは、あたふたとフルフェイスのヘルメット、シートベルトを揃って装着。
「――さて、帰りまっしょう」
 生来の生真面目さか、ミラーだけでなく直接振り向いて、肉視でこちらの状態を確認してくるクリストファ。念の入れ方が大昔の映画で観た軍人さんみたいやなぁ、とメット内蔵のマイクでジャニスが限定通信を用いて言ってきたのには大きく笑ってしまった。が、自分は限定でなく、周囲数十メートルのオールレンジで音声発信する設定を施していたため、?マークを露骨に頭上へ浮かべたクリストファを再度、振り向かせることとなってしまう。
「ごめんなさい、なんでもないのよ」
「ならいいけど――大方、秘匿でジャニスが何かを口にして、ウッカリなマキが共用周波数帯で爆笑した、ってところなんだろう?」
 クリストファさん、まじパねぇっす! 洞察力とか半端ねぇっす! なので。
「なにそれキモイ――」
 バイク座乗ながらも、器用にジャニスと二人でキャーと抱き合った。

「…………そろそろアクセルをベタ噴かせて貰っても宜しいでしょうか、このクソアマ――もとい、お嬢様方」

「フッ……君にその『権利』をやろう!」
 腕を組んだ偉そうなジャニスの物言いに、いよいよクリストファも声を立てて笑った。
「かなわないな、全く――さ、フロゥ」
 リーダーによるアクセルのベタ噴かせ宣言、とは程遠く、これはふわっと軽快に三人、それぞれを乗せたバイクが浮き上がる。道路、その側面、地下へ埋め込まれたエネルギーラインの恩恵だそうだけれど、詳しいことは知らないし興味もない。自分達の保有しているライセンスは小型浮揚分類であり、高度制限は地上より15メートル、速度制限が時速70キロメートル。現実的にはそれだけを知っていれば良いんだと思う。実際に、教習所でもそれ以上のことは教わらない。親機であるクリストファのパネル操作によって、そのヘルメット前面にナビゲーション画像が展開される。交通情報、気象情報共に異常、無し。

「気を付けて帰れよー、ガキ共――――っ」
 クリストファによる離校シグナルの発信に気付いたのか、職員室窓から身を乗り出している担任教師にみんなで片手を振った。口は悪いが、なんだかんだと生徒思い、面倒見の良い先生なのだ、彼女は。それは疑う余地、無く。

 地上5メートル、時速60キロ。浮遊感と、ささやかな密着感の伴うそんな一時間にも満たない時間が、マキーナ・ローゼンベルクは好きだった。ヘルメットに内蔵されているマイクによる他愛のないお喋り、時には雨、稀に雪の中。いつも、いつも三人だった。時折、輸送のトラックと無人の警察ロボット、本数の少ない路線バスが更なる上空を飛んでいるだけ、そう、本当に三人。フラットなエテルナの大地、地平線に向けてただただ、ふわりと飛び続ける時間。

 ぬるま湯のようだけれど、こんな時間がずっと続くのならば、これでも良い。そう、思っていた。

 私、マキーナ・ローゼンベルクは、そう思っていました。

 私、マキーナ・ローゼンベルクは、そう願っていました。

 これは推測だけれど、多分ジャニス・アスプルンドもそう思っていたし、願っていたのではなかろうか。

 自分が、事の真相を知ることになるのはもう少しだけ、後のことだったのだけれど。



   ◆ ◆ ◆


『先生っっ!! 大変です、クリストファが!!!!!!!』
 電話口から飛び込んできた教え子の声は、ほとんど絶叫だった。とにかく落ち着け、と言い付けておいて、担任教師ノリコ・マキシスは素早く携帯端末のGPS機能を展開。該当の生徒の座標を確認、即座に駆け出した。

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 人だかりもあったので、GPSは必要なかったかもしれない。そもそも校外学習で引率に当たっていた訳であって――それでも何故、よりによって校外で!
「どいてください、担任教師です!」
 人垣をほとんど泳ぎ掻き分けながら、輪の中心にどうにか辿り着いた。自分に連絡してきた教え子、滂沱(ぼうだ)として涙を流しているジャニス・アスプルンドの腕の中で力無く、クリストファ・アレンが横たわっている映像を目の当たりとした瞬間、頭の中が真っ白になった。
「医者は!」
「マキが呼びに行ってくれました……クリス、息はしているんですが……」
 鼻声でほとんど聞き取れなかったが、それでも健気にジャニスは報告を続けてくれた。立派な子だ。
「……なんかあ、今思えばバス降りた辺りからなんか顔色、悪いなと思ってて……で、自由時間に『ここ』来て、しばらく観察していて……でも突然『うわああああああ』って叫んだ、と思ったらビックリするぐらいそのまんま倒れちゃって……」
 クリストファの脈を取りながら、改めて今の場所を確認する――までもなかった。エテルナ、最初の移民船『アドバンス』の記念すべき着陸地点に設けられた『シュバリエ国立公園』。その一角、もっとも最初に開墾(かいこん)された農場の一部はそのまま今なお、記念として残されている――『アレン農場』だ。誇りあるエテルナ国民として間違える道理は無いし、確認する必要なんてもっと無かった。
「写真とか撮ってんじゃねーぞオイコラ」
「そーゆー趣味、いっ歳して恥ずかしくねぇすか」
 クラスの男子達の中から野次馬の群れに対し、露骨に凄み始める面々が確認できた。面倒見が良く、誰とでも壁無く接するクリストファは同性からの人望も本当に篤い。――まずいな、そんな頃合いに、やはり半ベソのマキーナ・ローゼンベルクがクラスメイトと共に初老に域の掛かる医者の袖を引っ張りながら現れた。相当なランニングを強いられたのか、医者本人が今にも倒れそうな状態だったが。

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「命に別状はありゃせんですが、一応念のために病院に運ばせておきましょうかの――特殊な事情のある子みたいですし」
 既に手配済みだったのか、救急車の到着まで五分と待たなかった。付き添う、と主張して止まないジャニスとマキを、これは厳しく叱り付けておかなくてはならなかった。専用バスでとにかくクラスごと、学校へと戻ることを『級長』に厳しく言い渡し、携帯端末を手に取った。学校は元より、保護者に連絡を一刻も早く入れねばならなかった。

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「私の配慮不足があったのかもしれません、申し訳ないです」
「いや、先生の所為(せい)では断じてないでしょう。謝罪は不要です。こちらこそお手数お掛けしまして」
 その職場から病室に直接駆け付けたクリストファ・アレンは母、バーバラ・アレンはある意味で、担任教師ノリコの謝罪を全く受け容れなかった。
「ここ半年は発作も起こらなくて大丈夫かと思っていたのですが……」
 血色も戻り、それこそ『すやすや』と寝息を立てているクリストファの額にゆっくりと、愛しげに手を置きながらバーバラは言う。
「私も詳細は知らないのですが、一緒にいた生徒によれば突然に倒れたと、言う話で――」
 伝聞でしか伝えられず申し訳ありません、続けようとした言葉は遮られた。無論、他ならない母、バーバラによって。
「倒れたのがよりによって『アレン農場』だなんて、嫌な偶然もあったものですね――」
 正直、『遮られ方』が想定外も想定外で、ノリコはしばし硬直してしまった。
「何か、『あった』のかしらね――それとも、『頑張り過ぎちゃった』のかしら?」
 クリストファの額、薄茶色の頭髪を撫で付けるバーバラが一瞬、落涙しているようにも見えたが、錯覚だったようだ。全く涙の素振りもなく、寧ろ静かな微笑を湛えて振り向いてきた、そんなバーバラはただ一言。

「先生、ありがとうございました。もう、クリストファは大丈夫です」





   ◆ ◆ ◆


 誰もいない森林公園で芝生に寝転がって、ただただ流れていく雲を見上げていた。ほとんど寝間着と化している学校支給の安ジャージ一枚では、少し肌寒くなってきたかもしれない。何らかの書籍を読み進めるつもりで持ってきていた携帯端末は、結局ただの一度も電源が入れられることも無くその足元へと転がされていた。ただただ青緑、気取った言い方をすれば碧色(へきいろ)の空、雲を眺めているだけでも充分な暇潰しとなることに気付いたこともある。太陽系の出身者は『碧色の空』に対して尋常ではない違和感を覚えると聞いたけれど、自分は本当に『なんともない』不思議。違和感どころか、寧ろ。太陽系、その地球とか火星とかの空が『青い』って方が肌に合わなそうな勢いかもしれない。
「こんなところで何やっているの?」
 突然、その頭の先から遠慮がちな声が届けられた。そんな声は、彼にとってはとても大切な『音』だったが。
「んあ――?」
 クリストファは体を起こすことはせず、力無く寝そべった状態を維持したまま、ただその顔だけを声の持ち主へと向けた。
「なぁんだ、起きているんじゃない。全然動かないから、てっきり寝ちゃっているのかなぁって思った」
「死んでるかと思ったんじゃね??」
 ばかっ、と口にして、それでもマキーナ・ローゼンベルクはその隣へと座り込んだ。ロングスカートを着用していたこともあって、慎重な体育座りを意識する必要はあったけれど。
「家のベル、押したんだけれど誰も出なかったし、バイクも無かったからもしかしてここかな、って――」
「悪くない推理だ、ミズ・ワトソン――」
 小首を、いや、大きくその首を傾げられた。まあ、あまり上手いこと言えた訳でもないのだろう。全く個人的な感想に過ぎないが、クラスメイトの多くが古典文学に興味も知識も持ち合わせていない現実はなかなか理解共有できるものではなかった。いや、自分こそがマイノリティなのかもしれないけれど――一時期、それこそ病室で正に病的に読み漁った記憶だけは確かなのだ、これが。
「……眠くもないのにベッドに寝転がっていても面白くなくてさ。ヤブ医者は煩わしいし」
 それは全くの真実であり、学校にはこの数週間一度も通うことも出来ないでいるクリストファであった。なんでもコールド・スリープ障害とは余程、随分とエテルナの医学会をワクワクさせる症例のようであり、連日行われる検査の数々やら電話攻勢にはいい加減に辟易としていた。端末の電源も電波も全て落とし、ほとんど無人の公園、その原っぱで寝転がる行為が抵抗と呼ぶには余りにもささやかな、逃避行為でしかないことを実は誰よりもクリストファ自身が認識していたのだが。
「大人気(おとなげ)ないのねぇ」
「――大人の毛は生えているんだけれどね、ちんまりと――」
 今度は、その額を容赦なく叩かれた。エテルナ公用語の一つでもある日本語はしかし、面白いです。
「――すみません、ちょっと調子こいてました」
 咳払いを一つ、そんなマキは幾ばくかの時間を微妙に意識して置いてから、暮れてゆく空を少年と同じ角度で見上げた。
「で、本当は何を考えていたの? ミスター・クリス??」
 お見通しのようだ。少し『天然』が入っているものの、基本的に勘の鋭い娘なのだ、マキーナ・ローゼンベルクは。
「……驚かないでくれる?」
「大抵のことでは」
 彼女が背筋を伸ばし、慎ましやかな胸を張ってみせる気配を感じ取ることは出来た。
「ん……」
 少年クリスはその口を開き掛けたが、言葉が形となってくれない。夕焼け空に数回ばかりも噛み付いてみるものの、それでも終ぞ言葉にはならなかった。
「……なんも」
 たっぷりと時間を置いた彼の背中から発せられた言葉は、結局はそれだけ。先程まで流れていた薄い雲の先端は、すっかりと地平線の彼方へと吸い込まれてしまっていた。
「なんも、なんてことないでしょ――」
 絞り出すようなマキの声に、クリストファは驚愕した。それこそ、慌ててその上半身を起こす程に。
「ずっと一緒に居るんだもん、それ位は分かっているよ――クリス、何か辛いことがあるんでしょ、我慢しているんでしょ……」
 なんと、マキーナはぽろぽろと泣いていた。
「うおおおい、なんだなんだ、どうしましたお嬢さん!!」
 戯(おど)けを演じつつ、彼女の銀髪を撫で付けた。あれ、女の人って髪の毛を触られるのは嫌なんだったか?
「あたしね、クリスには――クリストファにはいつも笑っていて欲しい」
「笑っているよ、ホラ――」
 満面の笑顔を、構成したつもりだったが。
「笑ってないよっ!!」
 一喝されてしまった。いや、そもそも彼女がこんなに感情を露(あら)わにするなんて。
「ごめんね、怒鳴ったりして……でも、クリスはいつも自分で抱え込んでいる気がするから……」
 両の手の平で乱暴に目元を拭いながらも泣き続ける彼女を前に、クリストファはただただ狼狽(ろうばい)することしか出来ない。こう言う時、どうすれば良いのか分からない。
「どうして君が――君が泣く必要なんてないんだよ」
「どうして……って、なんでそんなことを言うの???」
「……え、どうして……って……」
 返答は疎(おろ)か、反応に窮したクリストファに対し、マキーナは露骨に深い溜息を一つ。
「……もう、いいわ。変なこと言ってごめんなさい」
 何が良かったのかは分からなかったものの、これで落着であるのならば安んじて容れよう、クリストファは軽く頷いた。風がいよいよ強く吹き始め、木々が合唱を開始する。空は夕闇に染められつつあり、念入りに手入れ施されている芝が鼻を突くほどに緑の臭いを立て始めている。
「暗くなってきたし、帰りましょう。今度は風邪、引いちゃうわよ――そんな薄着だと」
 スカートに付着した芝を気にし始めながら、マキーナは言う。
「そうだね――ま、あまり距離は無いけれどバイク乗っていきなよ」
「……あ、うん――」
 足元の芝生に吸い取られそうな弱い声でマキは応じたのだったが、常に無い『ご近所さん』のそんな変化にクリスは全く、気付くことは出来なかった。
「ほら」
 なかなか立ち上がろうとしないマキに、クリスは静かにその左手を伸ばした。この時代にあっては珍しい、左利きの彼。
「ん」
 マキはそんな彼の左手を、同じ左手で意識して握り込んだ。互いの手を握る、そんなささやかな行為は珍しいものではなかった。ドベと転んだ時、バイクに乗る時、降りる時。彼は、いつだって躊躇(ちゅうちょ)無く、その手を差し伸べきてくれていたのではなかったか。それでもそんな小さくも柔らかく、暖かいクリストファの左手は今この瞬間、間違いなく存在していて、かつ自分だけに向けられているのだ、という想像は少女マキーナにとって悪いものではなく、それどころかいよいよ『ある一つの決意』を彼女に促した。深呼吸を、二回三回。彼は鈍く、そして自分は弱い。そんな毎日、もう決別しないと。
「――おい、一体いつまで……」
 手を握ってんの、とは続けられなかった。真っ赤な顔をして、小刻みに震えているマキーナ。一体何が。
「クリストファ・アレン君!!」
 左手はいよいよ、彼女の両手で握り付けられた。正直、少しばかり痛いのだが。
「お、おう」
 なんでまた他人行儀な。と言うかフルネームで君付けとかある意味で新鮮ではありますが。
「来週の『百合曜日』って、誕生日よね!?」
 『百合曜日』と言うのはエテルナに於いての曜日呼称に他ならない。太陽系でいう火曜日がこれに相当している。なお、余談ながらそんなエテルナの曜日表記は以下の通り。

 月曜日(Mon.)=茉莉曜日(Jas.)
 火曜日(Tue.)=百合曜日(Lil.)
 水曜日(Wed.)=菊曜日(Ger.)
 木曜日(Thu.)=藤曜日(Wis.)
 金曜日(Fri.)=蘭曜日(Orc.)
 土曜日(Sat.)=菫曜日(Vio.)
 日曜日(Sun.)=薔薇曜日(Ros.)

 ※読み方は「まり」、「ゆり」、「きく」、「ふじ」、「らん」、「すみれ」、「ばら」


「ああ、そう言われればそうなのかも――いや、そんなイベントもあったねそう言えば」
 たはは、と力無くクリストファは笑う。力無く、そしてどこか哀しげな笑い方は、実は少しだけ引っ掛かった。
「私の家でパーティー、しようってジャニスと話していて。ウチでやる分にはパジャマパーティでもOKなぐらいだしね――」
 上目遣いでクリスの表情を確認しながらマキは他人のそれ、さながらの口をどうにか動かした。
「――そもそも、っていうか、それにね――君にきちんと伝えたいことも……その……あたし……」
 語尾を窄(すぼ)め、その顔を地面に向けながらも、マキはどうにか自らの言葉を最後まで紡ぐことに成功はした――大成功とは言い難いかも分からないが。
「……マキ?」
 クリスがその上半身を曲げて、マキーナの顔を覗き込もうとする、そんな彼の行動を阻止するべく彼女はジャンパーのポケットから取り出した木製の小箱を取り出し、素早くその眼前に差し伸べた。
「――コレ、ちょっと早いけど……誕生日プレゼントだから……家、帰ってから開けて。同封の手紙、ちゃんと読んでね!!」
 そんな気勢で突き出された小箱を半ばの無意識の内に受け取ってしまったクリスを尻目に、マキは顔を隠すようにして、唐突に駆け出した。
「おぉい、バイク乗ってけって――」
 この期に及んで尚、状況を把握しきれなかったクリスは、箱を持たない自由な右手を彼女に向けたのだが、その残像を掴むことすら果たせなかった。
「走って帰るから、へーきっ! ありがとっ!!」
 十メートルほど先の街灯までの距離を、一瞬にして稼いだマキーナがロングスカートを踊らせながらその両腕を大きく振ってくる。遠目ではあったものの、いつも通りのマキーナ・ローゼンベルクの表情であったことをクリスは認識することが出来たし、安心は出来たが。
「また、スケジュールはきちんと連絡するからっ!!」
「――あ、うん」
 慌ててその右手を振り返すクリスの姿を確認すると、彼女はやはり一陣の風が如く、その視界から消えていった。

 静電気を利用した街灯が順番に点灯されていく中、クリストファ・アレンはただ、その場に佇(たたず)み続けていた。いよいよ宵の帳(とばり)が降ろされる時分だ。自分の髪の毛を愛撫する風が、湿気を強く含み始めたのは気の所為では有り得ない。トリトン湾より上がって来る潮風が、アルタミラ、その全域をその支配下に入れようと画策し初めているのだろう。もっとも、平均湿度の低いアルタミラにおいて、そんな潮風は決して忌み嫌われる存在ではなかったが。

 ――帰らなきゃ。

 全く無意味に立ち続けていた自分自身に気付き、クリストファ・アレンがその精神を現実へと戻すのには、実に数分の時を要とした。踏み出す一歩、足取りは本当にそれ程、固く重かった。記憶障害を患っている身ではあるが、過去に覚えのない重さ。いや、なんだこれは。酷く昔にも同じ様なことが無かったか?? ――ある訳が無い、と自分に強く言い聞かせた。


 クリストファ・アレンの両親はいわゆる科学技術者であり、『トライスター・インダストリ』と言う太陽系資本の企業、その嘱託として勤務をしていた、ようだ。ちょうど今から二年前、エテルナへの派遣が決まった両親に連れられ、一人息子のクリストファはこの惑星、エテルナの大地を踏んだ――らしい。

 それ以前のことはまるで覚えていない、と言っても過言ではない。つまり、クリスにとっての『地球生まれ』という履歴は、両親がたまに――本当にごく、稀なことだったが――思い出した様に始めてくれる昔話であるとか、実際に目の当たりにもした『移民認可証』を始めとする幾つかの公的書類だとか、かつての自分自身とも判別の着きようもない赤子時代のアルバム写真等の存在に依って、その事実を後付け的に認識しているものにしか実は過ぎない。
 もっとも、そんな本人の認識の程度差はこの場合は問題では無くて、クリストファ・アレンは彼の年代では非常に珍しい『地球生まれ』ということになっている。そんな珍しい体験をさせてくれた共働きの両親はややもすると等しく揃って研究室に篭もりがちではあったが、構う機会こそ少なかったものの、両親は決して酷い親ではなかったし、相互の会話だって充分に成立していた。寧ろ、一般家庭のそれ以上にコミュニケーションは円滑な程だっただろう。たまの薔薇曜日、父親であるアルフレッドの運転するエアカーに乗り、母バーバラが早起きして作ってくれたランチセットを背負った上でのピクニックはクリストファにとって、気恥ずかしくも歓迎すべきイベントであったし、特にこの最近は、手先の器用な父親にエアバイクのメンテナンスを教わる一時はクリストファにとり何よりも楽しみな時間の一つで、間違いなくあった。

 ただ、時折に憂いを含んだバーバラの横顔と、やはりどこか生気に欠けた父親、アルフレッドの瞳は印象深かったし、どこか切なく、やる瀬の無い部分を感じてはいた。息子である自分自身の疾病に――少なくとも子供の立場ではそう考えるしかない――由来、要因があるのか、と想像するとこれはこれで非常に辛いものがあった。

 深夜、ふと目覚めた時に両親が神妙な面持ちで静かに会話をしている、そんな場面への遭遇は二度や三度ではなかったし、母バーバラが泣き腫らした瞼(まぶた)で朝食の給仕をしてくれること、これもやはり幾数回と言う単位でカウントできるものではなくて。


 そんな、下地はあったのだろう。


 だから。








   ◆ ◆ ◆


 校庭隅、マッケイ高等学校のシンボル・ツリーでもあるエテルナカエデの老木、その下がマキーナやジャニスを始めとする女生徒グループのランチ、その指定席だった。大らかな校風も相まってか、メンバーは日によってまちまち。上級生が混じってくることもあれば、教師陣が当たり前のように車座に加わることすらあったが。
「……何にすっかなぁ〜」
 大盛りランチをペロリゲフゥと平らげて、ジャニスは苺牛乳を啜りながら呟いた。互いに母親が専業主婦と言うこともあり、本日のグループ内での弁当持参組はマキとジャニスの二人だけだ。他の何名かは血で血を洗う購買部での交戦なう、と言ったところだろう。学食、カフェテリアの存在もあることにはあったが、提供される食事の質がお世辞にも良いとは言えず、女生徒達の評判は芳しくない。野郎共は別、と言うか食べ物に関して、彼等は別の種類の生き物なんじゃないだろうかとすら思う。
「なんのこと?」
 マキの方はまだ、弁当箱の半分も処理できていなかったが、こちらが女子、年齢相応のペースで正しいのだろう。
「今度、クリストファにくれてやるプレゼントだよー。今月は結構ピンチでさ」
 げべっ――と、マキーナ・ローゼンベルクは口に仕掛けていた唐揚げを噴き出した。
「うわああああ、何ヤッてんの!?」
「――いやいやいや、なんでもなんでもフフフフフ――この唐揚げちゃん生きているのねん」
 幸いにもランチョンマット上での落着と言うこともあり、躊躇無く、拾い上げて再度口にした。
「なにオバチャンみたいなこと言ってんだよ!! なんかお前、朝からおかしーって絶対!! ついでに口調もおかしーよ!!」
 ふう、上手くごまかせた。後は話題を変えて。ええと、話題話題――と探っている内に、自身を早くも取り戻すことに成功したジャニスが指を鳴らす。
「で、マキさんよぉ、お前様は何を買ったの? 参考までに聞かしておくれい」
 おぶっ――と、マキーナ・ローゼンベルクは以下省略。


   ・
   ・
   ・

 ともかく、鋭い勘をいよいよ発揮したジャニスに文字通りに言葉通りにと言うか肉体言語で『搾られた』結果、マキーナは全てを話すことになってしまった。フライングでプレゼントを渡してしまったことも含め、手紙とその内容も全て。
「おっほー、ラブ(LOVE)ですね、いわゆる一つのライク(LIKE)じゃなくてラヴってやつですねー!」
 両頬にそれぞれの手を宛がって、体全体を波打たせるジャニスの不思議な踊り。最後に見たのは生徒会副会長に見事当選した時だっただろうか。
「ジャニスは――コレ聞いてなんともないの?」
 ここ数ヶ月、ずっと溜め込んできた言葉だったが、ようやくマキーナは口にすることが出来た。対象が雌ゴリラよろしくウッホウッホと踊ってくれていたこともあったのかも分からない。と言うかなんだこの状況。
「んー、そりゃクリストファはウホッ、良い男だと思うしその辺の馬鈴薯(ジャガイモ)連中の中でも秀でた馬鈴薯だと思う――まあご近所ってことの贔屓目(ひいきめ)もあるけど、どっちかっつうとアタシは『ライク』な方かな。性格は良いし、ちょっと身長が低いのが難だけれど伸びシロはあるだろ年齢的に考えて。あと、学業成績だって優秀だしバイクの運転は上手いし体調不良除けば運動神経もグンバツだしそういや料理も上手かったな――まあそれでも、あたしのは『ラヴ』じゃないんだよなぁ多分――って、あれ??? なんかアタシ言っていること、おかしくね????」
 不思議な踊りがビタリと停止した。
「あの……ジャニス……ひょっとして、あなた……」
「待て、それ以上ゆうな」
 上半身を大きく捻ったまま、マキが続けようとする言葉をその両腕で制してきた。彼女が一体全体、どんな表情をしているのか、座っているマキからすれば全く伺えなかった。
「ラブ……ライク……ラヴ……」
 ブツブツと呟くこと、十秒。

「YABEEEEEEEEEEEEEEE!! 『ラヴ』かもしんねぇえええええええええええええ!!!!!! 良く考えなくても、いい男じゃねえかぁぁあああああっ!!!!!!!」
 それはそれは晴れ晴れとした顔だったようだ、とは後世の歴史家が語るところである。

「ええええええええええっ! 何言っちゃってんの、この娘(こ)ーーーーーーーーーっ!!」
 もうやだこの親友――とばかりも言っていられない。なんか情勢が大きく変わりそうでアリマス。
「今、本当の自分の気持ちに気付いたぜ……これが……恋……?」
 老木、その幹に背中を預け、木漏れ日の中で妙にハードボイルドなジャニスさんじゅうろくさいだった。
「ちょっとなんか『流れ』おかしくない!? ちょっとそこに座りなさいよジャニス!!」
「ふふっ……このドキドキ、胸のときめきこそ恋愛よ!」
 力強く腕組み、そして何と言うドヤ顔。しかし何故オパーイを強調するのだ……。
「いーから、お座り!」
 完全にマキーナの命令をスルーしたジャニスはこれまた、勿体振った所作で眼鏡を取り出した。授業中、彼女が稀に着用する程度の代物であることを、勿論マキは知っている。
「フン……」
 腰に手を当て、文字通りの上から目線でマキを睥睨(へいげい)した。
「な、なんだってのよもう、ワケわかんない」
「CLP、たったの5……ゴミめ……」
「敢えて質問してあげるけれど、CLPってナニよ??」

「Chrice・Love・ Power――略してCLP」


 死ねぇえええええ、と怒号が校庭に轟いた。



   ・
   ・
   ・

「ふう――」
 絶叫、怒号、悲鳴の轟く校庭を校舎、その屋上から見下ろしている影が二つ。
「……気が滅入るわね、お互いに」
「めずらし。今日はいつものテンションは無しですかいセンセー?」
 無理、言いながら白衣の袖から『マッケイ高等学校』は保健医であるアニタ・フレイヤは細巻きの煙草を一本、取り出した。
「止めたんじゃなかった?」
 ちょいちょいと一本を指先で要求しておいて担任教師ノリコ・マキシスが呟く。
「『こういうこと』があるとちょっとね」
 取り出したガスライターでそれぞれの煙草に火を点けた。
「……どう伝えたものか、特にあの二人にはなーぁ」
「それ、私達の逃げられない責任だね。一人で大丈夫ですか、ノリコ?」
 眼鏡のブリッジを押し上げて、アニタが口にする。
「――正直、平静でいられる自信は全くないな」
「何かあったらフォローするから……って、ガチバトルになってない? アレ」
 フンガー、とかオラァァァと校庭隅で見苦しく絡み組み合っている教え子女子。ふう、とノリコは煙をゆっくりと吐き出してから、左耳、ピアスを模した端末を操作した。まあ本気でやりゃしないだろうから野暮ってもんかもしれないが。

『こらぁ、そこのレズっ娘ども、それ以上のキャットファイト禁止っ!!! 同世代の男子共を興奮させるだけだと何故気付かない!!』

 ピアス内蔵のマイクが拾ったノリコの肉声はそのまま校内システムを経由し、校庭据え付けのスピーカーによって増幅された。屋上からは豆粒大にしか見えないそんな『猫達』がこちらに向けて尻を叩きながら何かを喚いているようだが、まあ知ったことではない。聞こえないところでの教師に対する罵声、悪口、悪態は生徒の特権なのだ。良かったな、メス猫共。今日の私はちょっとばかり君達に対して寛容な気持ちになっているのだから。
「……教師に対して、随分と失礼なことを叫んでいるみたいねぇ……」
 着用している眼鏡、その望遠機能を操作しているように見えるアニタの含んだ物言いは、少し気になった。
「何を言ってるって? つうか読唇術凄いねアンタ――」

「お、お、ど、し、まーって繰り返し言っているみたいよぉ……」

 べっ――煙草を吐き捨て、しかしやっぱり拾い直してキッチリ念入りに携帯灰皿に収納して、二人の教師はゆっくりと屋上を後にした。それはそれはゆっくりと。





   ◆ ◆ ◆

「女子高生のオチャメな冗談だってのにさー……」
「とばっちり……」
 二人揃って水の『なみなみ』と注がれたバケツを両手に、クラス前での廊下立ちを厳然と命令されてはや五分。いい加減に腕が痛い。『偉大なる担任教師様と養護教師様に対する侮辱罪』がその罪名だった。
「ミズ・アスプルンド、さっきの話――」
 旧に畏(かしこ)まったマキーナの切り出し方に、思わずジャニスは、ぷっと噴き出した。
「本当に君はからかいがいがあるなぁー。今のところ、クリストファに対して特別な感情はないってばよ」
 今のところ、と言う表現を言葉通りに捉えるべきかどうか、マキは判断に苦しむところだったけれど。
「――まぁ、ただもうちょっと今までの三人で居てもいいんじゃね? とかモラトリアム的には感じているところでナー」
 ああ、やっぱりジャニスはジャニスなんだ、とこの言葉には思わせてくれる力があった。
「まあ歳も歳だしね、おまいら二人が上手く運べばそれはそれで、さ」
 ぐぬぬ、女の勘――時としてアテにならない――としては手応えはあるのですが、そもそもクリストファと私が『上手く行く』前提で話が進んでいるのはどうだろうか。
「少なくともクリストファは他の女にはまるで興味なさそうだし、大丈夫、変なことにはならんて」
 クリストファ・アレンが一学年上の学園のアイドル、『ミス・マッケイ』ことナターシャ・タルブリエシュから強烈な求愛を受け続けた挙げ句、袖にした話はあまりにも有名だ。そんなナターシャはただの美人と言うわけではなく、生徒会書記を務め、性格も成績も極めて良という絵に描いた完璧超人だったのだが。ちなみにそんな彼女とは今でも時折、ランチを共にすることもある間柄だ。
「まあ――お前がクリスと付き合うことになったら、ナターシャ先輩に『雪崩式ブレーンバスター』の一発ぐらいはヤられるかもしんねぇけどナ」
「それいやああああ!!」
 全く、想像も、脳内再生も行えないところが恐ろしい。常に穏やかな微笑を湛えるナターシャ先輩が、その細い両腕をゆっくりと……いやいやいや無理無理無理。

「オイコラ、フェロモン娘共、教室に入れ。これから臨時ホームルームだ」
 ガラと引き戸を引いて、担任ノリコ。
「すんません、センセイと違って進行形で溢(あふ)れているもんでして」
 オワタ――両腕の痺れる痛みも相まって、比喩でなくマキはその場で膝を突きそうになったが。
「おう、肖(あやか)りたいもんだ。とにかく早く教室に入れってばよ」
 え、なにそれこわい――ジャニスとマキは互いの目を見合わせた。スルーされるとは本当に思ってもみなかったのだ。


   ・
   ・
   ・

「臨時のホームルームってなんぞ?」
「重大発表?」
「まず有り得ないと思うけれどノリコちゃん、よもや結婚するん??」
 最後の勇気ある男子生徒に、後で屋上な、と言い付けてノリコは教卓を叩いた。なんで職員室じゃないんですかぁぁぁと沈み落ちる男子高校生の叫びをBGMとして。
「先に謝っておく。今から、私はお前達に酷い報告をしなければならない」
 プスー、とかプギャーと囃し立てていた生徒達が、静まり返る程度には真剣な、重い表情だった。エテルナの典型的な公立校の一つであるマッケイ高等学校、一クラスの人数は男女合わせて二十名弱、と言う数字。そんなクラスを軽く見回したノリコの視点が二十分の一、その空席に固定される。
「……ここ数週間、学校に来ていないクラスメイトがいることはみんな、わかっているよな」
 しん、とした中で最前列のサトルが、勿体振らなくていいですよセンセー、と答えるのに全員が頷き続く。ふー、ともう本日、どれだけ吐いたか分からない溜息がノリコの両肺から漏れ出た。

「……クリストファ・アレンは転校した」

 教室に満たされた空気、その全てが空間ごと凝固、凍結した。

「過去形なのには、意味がある。『転校する』のではなくて、『転校した』と言う結果、それが現実だ」

 ようやく、生徒達が我を取り戻し始め、やはり一番最初に自身を取り戻した橋本サトルがゆっくりと挙手を行う。
「そりゃまた急な話ですが……どこに? 北のヨコハマとかっすか? まあ、おもしれーヤツだったしメールでもしてやっか。遊びに行く口実も出来るってねぇ」
 サトルが口にした『ヨコハマ』とは北半球に据えられたエテルナ第二の大型都市であり、正式名称は『ネェル・ヨコハマ市』。余談だが、第一都市でもあるこの『アルタミラ市』は赤道直下、やや南半球寄りに位置しており、実質、このエテルナというアポロン星系第四惑星における人類の居住地域は、この二つの大型都市に制限されていた。その現実故に、サトル少年の発言は概ね、間違ったものではなかったのだが。
「……違う」
 首を振る担任教師。
「じゃあ自然に、『イザヨイ』ってことになりますよね? 私の父親も今、単身赴任で行ってます。今、開発がピッチ上がってるって聞いてますし」
 エテルナが保有する二つの衛星、その一つの名前をビビアン・キンバリーが挙げた。ちなみに、もう一つの衛星は『リリス』と呼称されている。橋本を始めとした数名も大きく頷くぐらい、ビビアンのそんな発言には説得力があった。いや、説得力と言うより、他に選択肢が存在しない。
「…………」
 担任ノリコは、しかし肯定しない。
「まさか『リリス』?? でも無人観測基地が複数あるだけだぜ?」
「建設計画のある居住衛星コロニー?? ペーパープランの筈だけど……」
「噂に聞く第三都市の建設とか……いや、クリスまで着いていく必要ねぇよなそれって」
 三々五々、声は上がり続けたが結局、いずれの発言に対してもノリコが頷くことは終ぞ無かった。
『やはり、か』
 凝固したままの二つの影、誰がと説明する必要はないだろう。周囲の女子達が気を揉んでいるようだったけれど。教卓、その両端をノリコは握り付けた。みし、と音が立つぐらいのものだったが。すまない、今から私はある意味で君達に死刑宣告をすることになる。

「クリストファ・アレンは両親共に『太陽系に戻っていった』、そう事後報告を受けている」

 マッケイ高等学校、その一年D組の空気は本日、二度目の凝固、氷結と相成った。


 その全容、理論が未だに解明されていない、天文現象、言ってしまえば自然現象である『X611』、『ネビュラ・リーヌ』を利用した『強引な星系間移民』、その結果としてここに立っている自分達、巡り会った自分達。そこに『太陽系』に対する愛着、関心は絶無、皆無であった。

 ただ、エテルナに住む人間であれば、赤子でも知っている、容赦のない現実。

 遠い。

 遠い、人類発祥の地、惑星である地球を抱くシステム、太陽系はとにかく遠い。人類が未だに獲得に及んでいない『光速』で276年。『ネビュラ・リーヌ』という天文現象に強引にただ乗りしても、頑張って片道五年。

 移民船が往還していたのも今は昔。いや、そもそも健在であったとしても一個人の力で乗り降り出来るようなものでは到底、無かっただろう。

 畢竟(ひっきょう)、『交通事故で亡くなった』に等しい、宣言だったのだ。まず間違いなく、二度と会えないという一点において。

 ガン、と椅子を蹴り上げるようにして立ち上がった男子生徒がいた。
「――ざっけんな、なんだそりゃ?? ノリコちゃんよ、悪い冗談にも程があるぜ! 場合によっちゃ、俺ぁ黙ってなんてねぇぞっ――」
 落ち着け、後ろの男子生徒からロルフと呼ばれた生徒は、肩に掛けられた手を乱暴に振り解いた。
「太陽系から来たクリストファがまた『そっち』に帰るなんて馬鹿な話を信じられるかボケェ! ええ、オイ!!」
 怒鳴ってはいるが、思いの外に冷静なロルフの発言内容に後部席のテリーはひとまず、胸を撫で下ろした。だが、彼のその怒りと苛立ちは充分に理解、共有も出来ている。
「ロルフの言葉は乱暴ですけれど、その点に関しては本当に俺も疑問です。なんつうか、本当に冗談にしか聞こえない点も含めて、っすけどね」
 ロルフに自制を促す目的が半分、そして自身のささやかな憤りを冷静に、テリー・ロイスは言い述べた、つもりだった。

「冗談……ですって…………」

 ノリコの両肩が、わななき始めていることに最初に気付いたのは、最前列の生徒。
「先生――」
 橋本サトルの声は、間に合わなかった。


「こんなこと、冗談で言えるわけないでしょおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!!!!!!!」


 わあああああああ、とノリコ・マキシスは教卓に縋(すが)り付き、無様に泣きじゃくった。

 最後の最後まで、冷静な自分を演じようとしていた部分は完全に、潰えた。そこに教師としての威厳、人生の先輩としての尊厳は無く。

 マジかよ――呟いたロルフが力無く、床に膝を突く。クリストファには、本当に世話になったんだぜ、俺は。他校のヤンキーに絡まれた時も、万引きを疑われてポリに連れてかれそうになった、あの時も。

「嘘だ、信じねぇ、信じねぇ――うがあああああああああ」
 担任教師、ノリコの咽(むせ)び泣きに引き摺(ず)られ、なんとロルフも号泣しだした。強面(こわもて)のロルフ・ツェプターが大泣きする、そんな光景を想像できたクラスメイトがこれまで存在しただろうか。

 そもそも、女帝よろしく振る舞っていた担任がみっともなく泣きじゃくっている光景こそ、異様だったが。

 ――さっきまで、普通のクラスだった筈なのに

 麻痺しているのか、どうなのか判然としなかったが、比較的冷静でいられた橋本サトルはふと、気になってクラス後方を振り返った。多くのクラスメイトが俯き、男女問わず泣き崩れている中で。

 ――ああ、君達は、そうだったな

 妙に、納得の行く光景だった。脱力はしているのだろう。それでも、二人で肩を寄せ合うようにして、ゆっくり、静かに立ち上がった影が二つ。

「先生、誰も先生のことなんて責めちゃねえですよ――」
 最前列に自分がポジションを構えているのはこの日の為だったか、等と埒(らち)もないことを考えた橋本は取り敢えず立ち上がり、伏せ泣いたままのノリコ、その背中を撫で付けた。そんな担任からの死角を提供する一方、空いた左手は自分の背中へと手を回し、早く行け、と合図を送った。無許可の早退、その幇助(ほうじょ)とでもなるかもしれないが、そんなのはどうでも。ありがとう、と背中に声を受けた気がして、静かに振り返ってみればもう二人の姿は消えていた。
「ごめんねぇ――先生なのにごめんねぇ……」
 尚も伏せって泣いている教師、この分では自分が一芝居を打つ必要は無かったかもしれない。
「大丈夫ですよ、先生――」
 何も、罪のない担任の背中を撫で続けることぐらいは、演技抜きで行ってあげるとしよう。橋本は、そう決意した。大人になってるのかな俺、等と場違いなことを考えた。



   ◆ ◆ ◆


 授業中と言うこともあり、無人の廊下を限りなく駆け足に近い早歩きで肩を並べて進む。パーキング・エリアに向かう途中で数学担当の教師と鉢合わせたが、老境に差し掛かったそんな数学担当は二人組に対し、特に疑問にも思うところもなかったのか、呼び止めてくることはしなかった。
「フルスロットルで駆けつけてやる」
「いなくなる、なんて有り得ないんだから」
 冷静な判断が出来ている、とは二人とも全く思ってもいない。とにかく動け、走れ、と肉体を構成する全細胞が吠え立てていることだけが、事実。暖機もそこそこ、マキーナとジャニスはそれぞれのエア・バイクへと飛び乗った。
「飛ばすぜ」
「免許――良いよね」
 免許停止は、ほぼ確実だろうと思う。IDは警察に握られ、GPS網の無粋な目は今も光っている。
「生徒会長選にも影響ありそうだけれど、気にシナイ!」
 ニタ、とジャニスはヘルメットを装着しながら親指を立てた。グス、と鼻を啜る音が一つ。
「……停学はありそう……」
 間違いなく、精神の『安全装置』が全力で機能している気配を認識しながら、マキーナも意識して、笑ってみた。本当に、涙も出ない。

「こら、そこの二人、待ちなさい!!」
 裏の第二玄関口から、倒(こ)けつ転(まろ)びつ飛び出してきた人影があった。養護教諭、アニタ・フレイヤその人であった。
「落ち着いてっ――バイクを止めなさいっ!!!」

「ごめんね、アニタちゃん」
 スロットルを捻ったのはマキーナ・ローゼンベルクが先だった。節々にピンク色のストライプが彩られた『隼(はやぶさ)』が吸い込み取り込んだ空気を、その背面に向けて大きく吐き出した。こんな乱暴な急発進は、彼女としても初めての体験だ。マキーナによって千切れた芝生が高く舞い上げられている中、ジャニス・アスプルンドはそれでも懸命に駆け寄ろうとするアニタに対し、深く一礼を行った。
「すみません」
 ぎゅ、『マーリン』が我が意を得たり、と咆吼(ほうこう)した。千切れ飛んだ芝生を、更なる高みへと飛ばし上げた。

 さながらジェット戦闘機の様に二人の乙女は母校、その裏門から飛び出した。エネルギーラインは伸ばされているものの一面の草原であり、地平線すら確認できる。そんな絵画のような、風景。

 目的地は、一つ。とにかく、クリストファの家に。

 装着が義務付けられている警報装置が規定速度の違反と規定高度の違反を派手な警告音と共に強制通知してくる。『有事の際』、『緊急避難的措置』、そんな建前もあって、最下級ランクのバイクでも本来はこれぐらいの飛行は可能なのだ。
『こんな時になんだけど――気持ちいいもんだナ』
 鳴りやまない警告音には眉根を顰(ひそ)めて、ジャニスは言った。ヘルメット間の相互通信は良好。
『同感』
 普段の数倍の高度、数倍の速度。バイクと言うより、飛行機に跨(またが)っている感覚だ。シートに固定されている上半身を風圧が容赦なく叩き付けてくる感覚も、そしてそれこそ有り得ない速度で流れていく背景、いずれも初体験だった。陳腐な表現になるが、本当に『風』になっている感覚。
『落ち着いたら中型免許、取ろうよ、マキ』
『それ素敵だね!』
 どう控え目に言っても罰金、場合によっては免許停止、そんな現実逃避も甚だしい場違いな笑いを交わした二人、それぞれの愛機の警告表示がいよいよ変わった。警察機構の管理下に入った、そんな役所言葉が明滅。
『アルタミラの治安は今日もガッチリムッチリ守られているな……』
『辿り着ければそれで良いんだから』
 ぎっ、とマキーナはハンドルを堅く、握り付けた。バイザーの片隅に、携帯通話端末に着信が続いていることを示すアイコンが学校ID表記を伴って点滅していたが、これも無視させて貰った。謝るのは、本当に後になってからでも出来る。今は、今やれることを。


   ・
   ・
   ・

 アレン家、その門前に到着したタイミングで小雨が降ってきた。大して広くもない前庭にほとんどバイクを乗り捨てるようにして二人は降り立った。
「ホントに反応ないな……」
 二度、三度とインターフォンを押し込んだが、物音一つもしなかった。家の主電源それ自体が切られているのかもしれない、という想像はジャニスには重い。
「車とバイクはあるみたいだけど――」
 先に家の外周を一回りしてきたマキーナの顔は酷く虚ろだった。勝手口は、とジャニスは一応尋ねてみたが。
「しっかり施錠されていたわ」
 畜生、ジャニスは郵便ポストの足を蹴り付けた。不用心だが、昼間の大半、アレン家の勝手口は開放されているのが常だったからだ。確かめるまでもなく、玄関ドアは完全に錠が施されていたし、どちらからともなく、その玄関口、マットの上に腰を降ろすことになった。大した肉体運動もしていないのに、酷く疲れていた。徒労に終わった、とは考えたくもなかったが。
「――いきなり『いなくなる』とか『どんだけ』だよ」
 小雨の降りしきる中、口火を切ったのはジャニスだった。その腰元で携帯端末がぐわんぐわん鳴り続けているのはマキーナも同じだった。
「今、どこにいるんだろう……」
 やはり携帯端末を無視し、マキは空を見上げた。太陽系へ帰る、とは言ってもどのような手段で、なのか皆目検討も付かない。
「貨物船、輸送船の類に便乗するしか方法ないだろ。もう、『リーヌ』に突っ込むかどうかってところじゃないかな、話が本当だとしたら――本当、だと、したらっ」
 えぐっ、とジャニスが一粒、二粒と落涙した。現実感の取り戻しは自分よりも早いみたい、と膝頭に目元を押し付けて泣いているジャニスの赤毛を撫で付けながら、マキはそんなことを考えられている自分自身に驚いた。それだけ、自分の『それ』は深刻なのかも知れない。
「ちくしょうっ――」
 鼻水を盛大に垂らしたジャニスが、マキの手を振り払う様にし、やおら裏庭へと駆け出した。何をするの、と叫ぶまでもなく、地響きを伴う激しい物音が一つ、二つ。
「ちょっとーーーーーーっ!?」
 慌ててマキは後を追う。雑草を踏み分け、ともかく裏庭へと。ふーっ、ふーっと息を荒げているジャニスが、勝手口ドアに対する三度目の体当たりを正に実行するところだった。
「このバカーーーーーーーーーっ!!!」
 ほとんどフライング・クロスチョップの様なタックルで押し倒した。体格差もあるので、実際にこれぐらいの勢いを伴わなければとても、止められる勢い、質量では無かったのだ。
「うううう……いてぇ……」
 雨に濡れた芝生の上を二転三転、濡れ鼠(ねずみ)となった二人。立ち上がったのはマキが先だった。
「全く、無茶するんだからジャニスは――昔からそうよ」
「……若者の特権ってね……」
 アホ、と言い捨てたマキの行動はしかしジャニスが想定していたものではなかった。ひょいひょいと身軽に、庭を渡り、その隅に据えられていた木製の収納庫を開く。箒、ちり取りや芝刈り機の詰められていたそんな収納庫にまで、錠はされていなかったようだが。
「こうゆうの使った方が早いでしょ。全く、脳味噌まで筋肉なんだから」

 ゴトリ

 えっ――最初、ジャニスは理解できなかった。マキちゃん、なんで『バールのようなもの』引き摺ってドヤ顔しているのはどうしてなんだぜ???

「これならイけるでしょ」
 フッ、と『バールのようなもの』――と言うか普通に『バール』――を両手で抱え、ジリジリと勝手口へ躙(にじ)り寄るマキーナ・ローゼンベルクの背中に、ジャニスは慌ててしがみついた。
「いやいやいやいやいやいや!!!!」
 他人の振り見てなんとやら――冷たい雨に頭をそれこそ物理的に冷やされたこともあってか、自分達が『しでかしていること、しでかそうとしていること』の異常性にようやく、ジャニスは思い至った。

 ぎゃあぎゃあと、しかし騒ぎ続けることは出来なかった。フッと二人の頭上に掛かった影。エンジン全開による浮揚、そんなエア・カーの運転席、酷く崩れたままのメイク顔。

 担任教師ノリコが逆光の中で、薄笑いを浮かべていた。



   ◆ ◆ ◆


 濡れ溝鼠(どぶねずみ)となっていた二人は結局、ノリコによって特別住宅地『グリーンヒル』は自治会室へと連行されることになった。自治会への根回しも全て済んでいたのか、まずは備え付けのシャワーを浴びさせられ、持ち込まれた学校指定のジャージと下着にその場で着替えさせられた。そして。
「座る前にこっち向け、スッと立て、歯ぁ食い縛れ」
 容赦のない平手打ちを一発ずつ、受けた。担任教師ノリコが、とかくデリケートな問題になりがちな体罰、その実行に関して全く躊躇(ちゅうちょ)しない人物であることを二人の生徒は左頬の痺れをもって改めて知ることになったが。
「バカどもめ……」
 しかし、次の瞬間にはノリコは大きく、二人ごとを抱き抱えてきた。
「怪我がなくって本当に良かった……」
「「ごめんなさい」」
 本当に自然に謝罪の言葉を口にすることが出来た。
「いや、バカなのはアタシも同じでね――教師失格だ。一番やっちゃいけないミスをしでかした」
 解放され、二人は椅子に座るように促された。
「それはそれとして……警察署からの呼び出し、聴取ぐらいは覚悟しておけよ。器物破損と住居不法侵入に関しては見なかったことにしておいてやるが」
 飲め、と鞄からパックジェルをノリコは取り出した。その中には三本の缶コーヒーが保温されていた。いただきます、と手を伸ばすマキーナとジャニス。
「あったかい」
「下手こいたら冷や飯食うことになってたんだからな、お前等――まあ食えるだけマシだけどな、その状況って」
 やはり、教師的にはエア・バイクでの暴走行為が一番、心臓に来たのだろう。胸の辺りを抑えながら、コーヒーを傾けるノリコである。
「それと、お前等の早合点もあった結果なんだがな」
 再び、鞄を引き寄せたノリコはその中から小箱を二つ、取り出した。
「クリストファからの餞別(せんべつ)だ。クラスの全員に漏れなく、送られた――今朝方、学校に箱で届いてな」
 私も貰ってしまった、とノリコは苦笑した。
「どうした、開けてみろ」
 固まったままの二人を促した。
「クリス――」
 ジャニスは普通に、マキーナはどこか恐る恐る手を伸ばしていた。
「……万年筆だ……」
「あはは、名前が入ってる」
 濃い緑色をなすペン軸はエテルナの国家色をイメージしているのだろうか。キャップ部分には金字でそれぞれの名前が彫り込められていた。『Maquina Rosenberg』、『Janis Asplund』、ノリコがこちらに振ってきたそれにも、『Noriko Maxis』と平等に。
「それにしても、なんで万年筆?」
 あらゆる日常用品の電子化が推奨、施されている今のエテルナ社会にあって、物理的な筆記用具の需要は著しく低い。ジャニスの素朴な疑問は当たり前のものだったとも言える。
「『万年』、にクリスなりの思いが込められているんじゃないか。インクは無くなったら足せばいいし、ペン先が痛めば新しいペン先に換えれば良い。手入れをしていれば、本体は一万年は使えるぞ、ってな――ヤツらしい、センスの良い餞別だと思うが」
 どうやら先生らしいノリコの表現に、なるほど、と頷いたジャニスである。よし、本当に一生使ってやる、と。
「ああ、それと『かぶらない』ってことも考えたかもね、持っている人、ほとんどいないと思う。これまたクリストファらしいな――おいマキ、どうした?」
 万年筆を握ったまま、動かないマキーナに担任は体ごと振り向いた。どうせ、今日は授業も何にもならんし、徹底的にこいつ等の面倒を看(み)てやろう、そんな決意は泣き崩れて崩壊したメイクを直しもしないでマイカーに飛び乗って学校を飛び出した瞬間から固まってはいた。
「――こんなものより、何か手紙とかメッセージとか無いのかなって……」
「ン、そもそもそこに納得行かなくて飛び出したワケだしナ」
 それでこうなったわけかい、ノリコは大きく天井を仰いだ。アグレッシブな学生は嫌いではないのだがなぁ。
「全員分の万年筆、詰まった段ボールにも何も無かったけど――おっと失礼」
 右側の耳ピアスを弄り始めるノリコ、これが彼女の携帯端末であることは勿論、クラスの皆が知っている。ブラインドモード、空中にウィンドウ展開を命じるアクションを二つ、無言でそんなノリコは行った。対面にいる二人には、何がなんだか。
「……転送するぞ。先に断っておくが、驚いているのは私の方だ。そして、これを許可するのが教師として正しいのかも分からん。中は未読。とにかく、転送する。受け取りなさい」
 空中のウィンドウを指先で弾く。生徒二人、それぞれの携帯端末が認識し、転送を受信。
「クリストファから、お前達、二人だけに宛てられたメールのようだ――制限が施されていたようで、いつ送られたものかはわからんがな――」



   ◆ ◆ ◆

「――そう、そんなことが」
 養護教師であるアニタが、ビールの注がれたグラスを軽く揺らす。今夜は付き合え、とノリコに宿直室へと引き摺り込まれた結果だったが、これは望むところでもあった。
「教師として、いや人間として勉強になる一日ではあったな」
 缶ビールの四本目を空にして、麦焼酎をノリコは手に取った。
「うそっ、ってぐらいにワンワンと泣いた後な、あいつらほとんど同時に泣き止んでさ――」
 ストレートで口にしようとするノリコのグラスをひょいと奪い、氷とウーロン茶を追加してやったアニタである。生徒だけでなく、教師の健康管理もまた、自分の仕事であったし――何よりも、長い夜になる、そんな確信があった。
「サンキュ――」
「泣き止んだ後で?」
 ノリコのペースに合わせていては文字通りに死んでしまうこともあり、アニタはちびりとビールを含むようにして飲んだ。
「泣き腫らした目でさぁ、言ってきたんだよな――」


   ・
   ・
   ・

「私、将来は政治家に、大統領になる!! クリスが、喜んで気持ちよく帰ってこられるようにする!」
 ジャニス・アスプルンドのこの決意、宣言をノリコは笑わなかった、笑えなかった。

「私はその時に恥ずかしくない人間でいたい、そう思います。胸を張って、そう言えるように――頑張って、強く生きていきます」
 控え目に響くが、実はマキーナのこの発言こそ、ノリコを心から驚かせたものだった。勿論本人からの許可を得て、読ませて貰った彼女宛の手紙、その内容で、なおこの娘は、と。

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   ・

「……凄い子達ね……」
 酒宴と呼ぶにはささやかすぎる、二人きりの呑み会は開始より四時間。もう、ノリコもアニタも家に帰るのはとっくに諦めている。
「ああ、あの二人を教育しているのは私にとって最高の名誉になる日がくるかもしれんなぁ――」
 煙草を片手に、髪の毛をボリボリと掻きむしるノリコ。
「――あ、いや、もう一人を含めておかないとならんか」
 酒が回り始めていることもあって、ノリコの発言の意味をアニタは即座に理解できなかったのだが、考えるまでもなく自然に口が動いた。

「「――クリストファ・アレン――」」

 二人の女教師の言葉が重なり、どちらともなく杯をガチリと合わせた。今日、何度目とも着かない乾杯であり、献杯だった。

「ごめ……もう一回、だけ……」
「良いよ、ご自由に」
 えぐえぐと鼻を垂らし泣き出した、親友のノリコ。良い友達を持ったなぁ、アニタはそんなことを思いながらカクテルを傾けた。
「みんな、良い子だ……」
 呟いて、白衣胸ポケットから万年筆を取り出した。勿論、クリストファからの贈り物である。二度、三度と撫で付けて。
「ガンバレ、少年――」
 強く、祈り願った。波乱ある、辛い人生になっていくのだろうが、その中でもどうか、一粒で良い、一条(ひとすじ)で良い、光がありますように。少しでも多く、笑っていられますように。

 願うことしか出来ない身の上を今更ながら思い、アニタ・フレイヤも静かに泣いた。

 無力感が、ただただ悔しかった。









   ◆ ◆ ◆

 Janis Asplund様

 先に謝らせて下さい。申し訳ない、このメールを読まれている頃は多分激怒されていることだと思う。ごめんなさい。色々な意味で、勇気が足りませんでした。言い訳はするつもりはありませんが様々な状況が様々に絡み合った結果ですとしか言い様がないのでやっぱり言い訳になりません。
 ともあれ、『グリーンヒル』での日々は楽しかったです。朝、当たり前のようにバイクで通う日々、僕は一生忘れることはないでしょう。楽しかった。実りある日々をありがとう。
 どうなるか、先のことは分かりません。けれど、僕はまたこの星に戻ってきたいと思いますし、戻ってくるつもりです。どうか、どうかお健やかに。そして、僕がエテルナに戻ってきた時には「おかえり」と言って貰えればこれ以上の喜びはありません。
 君の未来と、エテルナという国に素晴らしい未来がありますように。遠く離れた場所になりますが、僕はそれを祈り続けたいと思います。

 ジャニス、本当にありがとう。

                     Chricetopher Allen


   ◆ ◆ ◆


 Maquine Rosenberg様

 ごめんなさい。どうやら君と一緒に年齢を重ねることは出来そうにもありません。どう謝れば良いのか、その方法も手段も思い付きません。言葉上でならごめんなさいと繰り返すことしかできません。
 誕生日のプレゼント、ありがとう。受け取ってしまい、今も持っていますが受け取ったこと、これ自体が正しい選択だったのかどうか本当にわかりません。僕は、あの段階でエテルナを去ることを知っていました。ごめんなさい。
 『グリーンヒル』に越してきてこっち、本当に君の好意には助けられたのだなと今になって思います。そして、これが勘違いだったらやはり申し訳ないのですが、君が僕に好意、愛情を持ってくれたことを本当に嬉しく、そして誇りに思います。

 マキ、ごめん。

 大好きでした。マキのことが、大好きでした。自覚したのが、いつのことだったかは覚えていません。ただ、気が付けば君のことを目で追っていましたし、気にしている自分がおりました。

 いつか、戻ってきたいとは思いますが確約は出来ません。ご存じの通り、太陽系は遠いです。あまりにも、遠いです。どうか、お健やかで。そして、僕なんかより素晴らしい男性を見付けてくれること、それを心から祈らせて頂きます。綺麗な恋をして下さい。哀しいですが、これは僕の本心です。

 ピアノはどうかどうか続けて下さい。君の演奏も、好きでした。

 マキーナ、本当に今までありがとう。そして、ごめんなさい。

                     Chricetopher Allen


   ◆ ◆ ◆





 雨が降っているようだ。

 一粒、二粒と零れ落ちていくささやかな水滴。

 そのリズムに合わせて、ピアノを弾きました。

 涙雨、と言う言葉があるらしい。上手く言ったものだと思います。

 譜面はありません。

 ただただ、揺れ落ちる水玉のリズム、涙のリズムに合わせて付き合いの長いピアノ、その鍵盤を撫で続けました。

 でもね、泣くのはこれっきり。

 私は、もう泣かない。

 ……そうね。私にとって、これが生まれて初めての『作曲』と呼べる行為だったのかもしれません。




 マキーナ・ローゼンベルクは、もう泣きません。













posted by 光橋祐希 at 00:00| Chapter:01 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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